市場と生産

「アートフェアは、アーティストにとっては、両親のベッドルームに入ってセックスしているのを見るようなものだ」

という有名な言い回しがある。なかなか刺激的な表現だけれど、アーティストの目の前でギャラリストと購入者が作品の売買の交渉をしているシーンを表した比喩としては、絶妙なところを突いていると思う。

この言い回しの初出はどこなのかを調べてみた。私が調べた限りでは、ジョン・バルデッサリの十八番のジョークのようだ。

ジョン・バルデッサリ「アートフェアはアーティストが来る場所ではない。…(中略)…アートフェア会場にやってくるアーティストは、両親のセックス中に寝室に勝手に入り込んだティーンエイジャーのようなものである」

(引用元:サラ・ソーントン(著)、鈴木泰雄(訳)『現代アートの舞台裏 5カ国6都市をめぐる7日間』ランダムハウス講談社、2009年。原著は、Thornton, Sarah, Seven Days in the Art World, New York, 2008)

なおこの本は、現代アートのオムニバス式ドキュメンタリー映画のような構成になっていて、アートフェア以外にもビエンナーレ、美術大学、アート雑誌、アーティストスタジオの裏側を窺うことができる。アート業界にいても他の界隈の仕事の様子を知る機会はほとんどないので、とてもおもしろかった。

 

さて。私の興味は、バルデッサリのこの言葉が、2023年の今でも有効かどうかである。

古くは1969年のアート・ケルンで、ヨーゼフ・ボイスはこのアートフェアに対して「エリート主義的」と非難した。しかしツヴィルナーが「ボイスは中で金を稼ぎ、外で抗議をしている」と言ったように、彼の作品価格は当時西ドイツのアーティストの中では最高額だった。ボイスはアート・ケルンの会場に毎日来ていたという証言もある。

ボイスがアートフェアに対してどのような心持ちで臨んでいたのかは、詳しい人に教えを請いたいところだが、アートフェアにおけるアーティストの立ち位置の曖昧さ、居心地の悪さというものは、アートフェアというシステムの成立当時からあったと想像される。

しかし現代のアーティストにとって、アートフェアというのはどのような場所なのだろう。バルデッサリの比喩のようにナイーブな気持ちでアートフェアに参加しているアーティストの姿は、過去のものになりつつあるのではないだろうか。

アーティストがアートフェアに参加する動機として一番もっともらしい答えとしては、最新のアートシーンにキャッチアップするため、というところだろうか。学術界における学会と同じで、漠然とアートのトレンドを知るという意味もあるだろうし、表現の前衛性で戦っているアーティストにとっては、他に同じことをやっている人がいないかどうかという、自分の独創性を裏付けるための義務的な参加だったりするかもしれない。

作品を出展しているアーティストに関していえば、ギャラリストの立場としてアーティストに会場に居てもらいたい理由は、購入希望者がアーティストから直接話を聞くことで作品の理解が深ま(ったと錯覚す)るため、商談成立にプラスの効果があるからである。アーティストにとっては、作品だけでなく自分という人間としてもプロモーションしなければいけないとすれば、想像するだけでプレッシャーの大きい仕事だと感じる。しかし、良いコレクターと出会うきっかけとなり、そこから良質のフィードバックを得たり、長い付き合いが始まったりという可能性を秘めているのもアートフェアである。

出展していないアーティストがアートフェアに足を運ぶ場合のリアルな想像をすれば、「SNSを見ていたらアーティスト友達がみんな行ってるから」というのが理由になりえるかもしれない。もちろん人によるだろうけれど。アーティスト同士がお互いにファンである場合もあるだろうし、普段遠方に住んでる友達と久しぶりに飲みたいということもあるだろう。アートフェアに足を運ぶ目的が必ずしも何かの利益のためとは限らない。

かつて田中功起さんは、アートフェアとビエンナーレの違いについて、「市場性か社会政治性かではなく、プライベートマネーかパブリックマネーかの違いでしかない」と述べていた。まさにその通りで、現代のビエンナーレが市場の原理から逃れられないのと同じく、アートフェアにも今や社会的意義が求められている。地域創生、人々の交流と対話の場の提供、未来のビジョンの共有など、アートを媒介としてひとつの場所と時間に人や情報が集約される場としてアートフェアが機能しているのであれば、そこにアーティストが不在であってはならない。

私個人の考えとしては、アートフェアという制度が未来永劫万能だとは思わないが、アートワールドにおけるお金というのは、人間の身体をめぐる血液のようなもので、その循環を止めないことは非常に大事だと思っている。アートの経済がそのような生命維持機能のひとつであるとすれば、冒頭のアートフェアについての言い回しは単なるジョークではなく、人と人が出会い次の歴史を紡ぐための生殖行為の場を表す、生々しくも秀逸な比喩と言えなくもない。