ジダーノワ アリーナ個展「Fictitious」

2025年2月14日から3月13日まで大阪のN projectで開催されたジダーノワ アリーナさんの個展「Fictitious」に、企画協力という形で参加した。事前の相談から展覧会の最後まで手厚いサポートをしてくださったN projectの長井秋子さんと北川茜さん、そして素晴らしい作品を展示してくださったジダーノワ アリーナさんには、本当に感謝している。展覧会の記憶が鮮明なうちに、今回考えていたことなどを書き留めておきたいと思う。作品論ではなく、制度や環境についての話が主になる。

始まりは、2年くらい前にN projectさんから「展覧会企画をしませんか」とお声がけいただいたことがきっかけだった。最初に思ったのは「キュレーションそのものを前に打ち出すよりも、その展覧会がアーティストのキャリアの役に立つようにオーガナイズすることのほうが、私が企画する意味があるのではないか」ということだった。その頃、キュレーターの思いが前に出過ぎていてアーティストの作品よりもキュレーションのほうが主体になっているような展示をいくつか見ていて、思うところがあったのも影響していたと思う。また前回2018年に自分のキュレーション展をしたときの経験や、今回のギャラリーの広さや構造も鑑みて、グループ展ではなく個展にするべきだと考えた。そこから、私から長井さんにアリーナさんを提案し、長井さんにアリーナさんの展示を見に来ていただくなどして作風や方向性を理解していただいたのち、アリーナさんの博士論文審査対象作品の完成とN projectで可能な展示時期がうまくはまって、今回彼女にとっても非常に重要な作品を大阪で展示させていただける機会が実現したのだった。

私自身の興味の中心は、ここ10年ほど変わらず現代美術市場についてではあるが、それはいわゆるマーケティング的な発想で「どうすればこのゲームのなかで勝ち残っていけるのか」ということではなく、「優れたアーティストが社会のなかで持続的に活躍できるにはどのような環境であったらよいのか」について知りたい、考えたい、というものだ。いわば経営学ではなく経済学に興味があると言える。そういった観点で私はずっと京都の若いアーティストたちを見ていて、ジダーノワ アリーナさんは学術的・美術批評的評価と市場評価に非常にギャップがあるアーティストだと思った。言うまでもなく、学術的・美術批評的評価が高く、市場評価がそれに追いついていない。これは彼女の問題ではなく、関西の美術市場の未成熟さに基づく問題に起因している。それはある種のポテンシャルであるとも言えるだろうけれど、そこにギャップが存在していること自体を認識できる層がとにかく少ない。もしポジティブな面があるとすれば、アーティストが市場の評価に振り回されずに作品制作に集中できることかもしれないが、やはりアーティストにとってはひとつひとつの展覧会が、社会に求められているという実感を持てる機会であってほしいと思う。

しかし、これは私のキャリアにも関わることだが、結局今回の展示では私がプロモーションして作品の良さを伝えたとしても、その品質保証は今回きりのものになってしまうのだとつくづく実感した。私自身が本職のキュレーターやギャラリストではないからだ。常にその場所にあって所属アーティストを長く支えているギャラリーが保証するのとは、やはり同じにはならない。その足元の不確かさと引き換えに、今回の展示企画はアートビジネスではなく純粋に「良いアーティストを広く知ってもらいたい」という動機からであることを貫けたという側面はあるかもしれないけれど、アーティストのキャリアに寄与できたかというと、今の自分の身分では限界があると思った。もし今回の展覧会がアリーナさんの未来につながる良い機会となっていたとすれば、それは彼女自身の才能と努力に依るものであって、私が役に立てたことなどごくわずかだった。また、元ギャラリスト研究者としては、アーティストを支え続けるギャラリストというのは本当にすごい職業であると常々思っているが、そのなかでも一番難しいのが「続けること」だと思う。規模や世代に関わらず、アーティストの将来に投資をして経営を続けているすべてのギャラリストという職業の人々を尊敬する。

N projectからの当初の期待に応えられたかどうかはわからないけれど、豊かな才能に恵まれた、自分が信じるアーティストと一緒に展覧会を作って同じ時間を過ごすのは、想像以上にかけがえのない経験になった。最初にひとりで展示予定作品を見たときの感動、来場くださった方と作品の理解を共有できる喜び、トークイベントなどでアーティストさえ予期していなかった発展的な意味に出会う幸せ。これらを独り占めするのはとても惜しいので、ジダーノワ アリーナさんがこれからますます活躍の場を広げて、この時代を代表するアーティストとなってくれることを願っている。作品制作をできない私がこの現代美術の世界でアーティストのためにできることといえば、なぜこの時代にこのアーティストが重要なのか、このアーティストやこの作品が現代社会のどのような文脈のなかで存在しているのかを、言葉で語ることしかない。これは論理による説得や講釈ではなく、もちろんアーティストの言葉の代弁ではなく、水のように不定形でこぼれやすいものに容器を与えたり水道を作ったりして誰かに届けるような行為だ。今の私は両手のひらで水を運ぶような未熟で非効率な方法しかできないが、それでも今回手渡しで届けられた先で何かが芽を出し成長し花が開くための潤いの一滴になっていたらと願う。

記録のために、今回のキュレーションテキストを掲載しておく。

もし仮にこれまでの記憶や経験がいまの「私」を支えているとして、その記憶はどこまで確かなものだと言えるだろうか? 経験したはずなのに思い出せないこと、断片的な記憶しかないがかすかに覚えていること、忘れたつもりになっていたが音や匂いがきっかけで突然思い出すこと、自分の記憶だと信じていたが実際は違っていたことなど、記憶と忘却の間にこれほどの不確かさがあるにもかかわらず、いまここに存在しているこの「私」は揺るがないということが有り得るだろうか?

ジダーノワ アリーナの個展「Fictitious」における主要な映像作品《いまと私、わたしともうひとり》は、記憶と忘却をテーマとして、誰しもに起こり得る忘却から人格を再構成し、現在の記憶をもとにした「私」と対比される仮想的人格のありようを映像表現として探求した作品である。アニメーションの映像と実写の映像、カラーの景色とモノクロの景色、日本語のナレーションと作者が作り出した架空の言語であるルーシェ語のナレーションが交差し、シームレスにつながりながら展開する。作家自身による語りには、自分の記憶について話す「私」と、忘却した記憶から生まれたもうひとつの人格としての「わたし」が交互に現れ、鑑賞者がこの人物についての統一された物語を構築することを阻害する。

「人格」「アイデンティティ」「ペルソナ」など、ある人がその人自身としてのまとまりをどのように捉えるかに関しては、互いに重なり合う複数の概念が存在する。「人格」というときには内面的な特徴を指し、「アイデンティティ」は自分が何者なのかという自己認識の仕方のことであり、「ペルソナ」は他者に対してどのような人間として見せているかという外的側面のことである。しかし実際にはこれらの概念は明確に区分されているのではなく、あるペルソナを装いつづけているうちにそれがアイデンティティと化すことや、アイデンティティの揺らぎがそのまま人格の不安定さに繋がることは往々にして起こり得る。この作品において欠損した記憶を埋めるように立ち現れるもうひとりの「わたし」は、作品のなかにしか存在しない架空の「人格」である。また、本展で初公開される新作《Suitcase》では、架空の4人の人物が登場し、スーツケースに「人格」を詰めて旅立っていく。忘却された記憶と虚構の間を行き来しながらつくられた「人格」を描くこれらの作品は、現代に生きる私たちがセルフブランディングやオンラインアカウントの使い分けによってマスキングされている、自分自身の心のなかの曖昧な記憶や不定形な意識へと潜るよう誘う。

欠損した記憶を穴埋めするのは空想や虚構かもしれないし、どこかで見たり聞いたりしたエピソードが交錯しているのかもしれない。あるいはこうであってほしいという願望かもしれない。その記憶と忘却の波打ち際で、過去の「私」や仮想的人格の「わたし」、言語や土地が内包している集団的記憶、それらが現在ここに生きているジダーノワアリーナという作家のこの最新作に流れこんでいる。有り得たかもしれない過去や未来は無限に存在するが、それらの複数性を背負いながら一度きりの人生を生きること、そしてその濃縮された現在という瞬間の豊かさを、本展は私たちに示している。ジダーノワの作品が非常に私的な個人史に基づくものでありながら鑑賞者に訴えかける力を持つのは、彼女にとって切実な問題である記憶と忘却が個人の人格形成にどのように影響するのかについての探究を作品化することで、人間の自己認識のありかをめぐる普遍的な問いを私たちに提示しているからである。