クリエイティブであれ、という至上命令

「アートの経済」や「アートと経済」について、私は純粋な学問的興味だけではなくジャーナリスティックな関心があることを否めないのだが、近年それは人間の欲望と関わる問題だからだということを自覚するようになった。

アートにまつわる欲望というのは、純粋に作品を手に入れたいという望みばかりでなく、この時代の優れたアーティストを支えたい、上流のキラキラしたアートワールドの一員であると認められたい、作品を転売して差益を手にしたいなど、倫理的にも社会的にも端から端までのグラデーションがある。それがどのような種類の欲望であれ、すべてが商取引の対象として狙われて、昨日よりも今日、今日よりも明日、物質的にも精神的にも社会的にも経済的にも「より良い自分」になるよう煽られているのが、この資本主義社会だ。この社会では、「そのような際限のない消費には限界があるのではないか。我々はサステナビリティを重視して今あるものに満足すべきだ」という反進歩史観的でエコロジカルな思想すらも、過去を乗り越えるための創造的破壊のひとつとして取り込まれてゆく。

クリエイティブな人間、イノベーティブな社会が賞賛される空気はいかにも21世紀的で、人間の仕事がAIに置き換えられることがリアルに感じられてきた昨今では特に、「クリエイティブ」という言葉はみんなが大好きなスローガンになっている。

しかし、クリエイティブであることがこれほどまでに私たちの義務になったのは、それがグローバル経済において交換可能な価値を生み出すからだ。経済学者ヨーゼフ・シュンペーターが「資本主義に代わりがないのは、自身が変わり続けるからである」と述べたように、私たちは衣食住に満たされてもなお、「新しい価値の創造」という錬金術で自動的に商品を増やそうとする。

さて、現代アートの歴史の発展に関してはどうだろう。展覧会のイントロダクションや作家の紹介文に「既存の概念を問い直す」としばしば書かれているが、アートの役割として「既存の概念を問い直すこと」、とりわけ「現代アートという既成概念を覆してそのボーダーを乗り越えること」を期待されるようになったのは、資本主義の発展と当然無関係ではない。iPhoneやNFTの発明と同じように、新奇さと驚きがその価値となり商品化されるのがこの資本主義社会である。その新鮮さの寿命はますます短くなっており、新しい刺激を楽しんだ次の瞬間に私たちは「もっと見たことのないものを」「もっと斬新なものを」と際限なく期待してしまう。壁にダクトテープで貼り付けられたバナナや、オークションで落札された瞬間にシュレッダーにかけられる絵画は、アート業界を手玉に取るという瞬発芸として歓迎され、消費される。そして結果的にもっとも儲かったのは、アーティストではなく、転載動画を載せたYouTube配信者だったりするかもしれない。それが資本主義に支えられた現代アートの行き着く果ての姿だ。

とはいえ、私たちはクリエイティブでない保守的な世界に戻るべきかというと、大抵の人々は現状を自らの手で改善できる「クリエイティブな」世界のほうを選択するのではないかと思う。社会主義という壮大な実験が失敗に終わったのも、人間の基本的な性質である創造性が生かされないシステムだったからだろう。人間の創造性は、先史時代の壁画や幼児の遊びにも見出される原初的な性質である。しかし、人間の文明がその創造性によって常に右肩上がりに発展するというのは近現代の発想だ。創造性を社会の発展と直線で結ばないこと、価値創造という耳触りのいい言葉ですべての物事をプライシングしないこと、自分の欲求の源泉を企業の広告ではないところに見つけることというのは、果たして可能だろうか?